南アフリカの少年は、ゴルフで世界に出るために、ほとんど無一文で故郷を離れました。初めて全英オープンに出た時、彼はホテル代が払えずSt. Andrewsの浜辺で眠ったと語っています。それでも、来る日も来る日も体を鍛え、球を打ち、世界中を飛び回り続けた小柄な男は、やがて 米国人以外として史上初めてキャリア・グランドスラム(4大メジャー全制覇) を成し遂げます。全世界で 165勝、メジャー 9勝。常に黒のウェアで通したことから「ブラック・ナイト(黒い騎士)」と呼ばれ、アパルトヘイト時代には自国の政治を背負わされて激しい抗議にさらされながらも、ゴルフの伝道師として世界を旅し続けました。この記事では、ゲイリー・プレーヤーの人生の選択と挑戦を辿ります。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1935 | 11月1日、南アフリカ・ヨハネスブルグ生まれ。8歳で母を癌で亡くす |
| 1953 | 17歳でプロ転向。同じ頃、出征する兄から「生涯ずっと体を鍛え続けろ」と誓わされ、これを生涯守り抜く |
| 1955〜 | 資金乏しく世界を転戦。初めて出た全英オープン (St. Andrews) ではホテル代が払えず浜辺で野宿したと語る |
| 1959 | 全英オープン (ミュアフィールド) で初メジャー制覇 (23歳) |
| 1961 | マスターズ 制覇 ― 同大会初の米国人以外の優勝者 |
| 1962 | 全米プロ選手権 制覇。キャリア・グランドスラムまで残すは全米オープンのみに |
| 1965 | 全米オープン (ベルリーブ) をケル・ナグルとのプレーオフで制覇。米国人以外として史上初・歴代3人目のキャリア・グランドスラム達成 (29歳)。優勝賞金を全額寄付 |
| 1968 | 全英オープン (カーヌスティ) で2度目の全英制覇 |
| 1969 | 全米プロ (NCR CC) で反アパルトヘイトの抗議に晒される。1打差2位 |
| 1972 | 全米プロ選手権 で2度目の制覇 |
| 1974 | マスターズ・全英オープン を同年制覇。世界ゴルフ殿堂入り |
| 1978 | 43歳で マスターズ 3度目の制覇 ― 最終日に猛チャージし逆転 |
| 1985〜 | 50歳到達後、シニア (現PGA TOUR Champions) 参戦。シニアでも勝ち続け、最終的にシニアメジャー 9勝を積み上げる |
| 1990s〜 | コース設計家 (Gary Player Design) として世界で400件超のプロジェクトを手がける |
| 2000s〜 | マスターズの名誉スターター (ニクラス・パーマーと共に開幕の始球式) を務める。慈善活動 (The Player Foundation) を継続 |
無一文の南アフリカの少年が、世界中を旅しながらメジャーを獲り、引退後も設計家・慈善家として走り続けた ― プレーヤーの人生は「世界を最も多く旅したゴルファー」という呼び名そのものです (PGA TOUR Champions / World Golf Hall of Fame)。
1962年、プレーヤーは全米プロを制し、メジャー3つ目を手にしていました。あとは 全米オープン だけ ― これを獲れば、ジーン・サラゼン、ベン・ホーガンに次ぐ史上3人目、そして 米国人以外で初めて のキャリア・グランドスラムです。だがその座は、3年待たねばなりませんでした。
1965年、舞台はミズーリ州セントルイスのベルリーブCC。この週のプレーヤーは、当時としては極めて異例の道具を持ち込んでいました ― 釣り竿メーカーのシェイクスピア社と契約し、当時誰も使っていなかった グラスファイバー (ガラス繊維) シャフト を採用していたのです。ガラスは割れやすく「メジャーをガラスシャフトで勝った者はいない」と言われていましたが、プレーヤーは意に介しませんでした (PGA TOUR)。
プレーヤーは試合前、過去の全米オープン優勝者の掲示板をじっと見つめ、そこに自分の名前が金文字で刻まれる様を思い描く「自己暗示」で集中を高めました。バッグには常に蜂蜜の壷を忍ばせ、6ホールごとに一口すすってエネルギーを保ちました。54ホール終了時、彼は2打差の首位。最終日、3ホールを残して3打差としながらも16番でダブルボギーを叩き、ケル・ナグルに並ばれてプレーオフへ。だが翌日の18ホールプレーオフでは、当時44歳のナグルに対し29歳のプレーヤーが圧倒。3打差で勝利しました。
1920年以来初めて、米国人以外が全米オープンを制した瞬間 でした。同僚のジュリアス・ボロスは「釣り竿で全米オープンを勝つなんて、史上空前の奇跡を見た」と笑ったと言います。そしてプレーヤーは、3年前にUSGAのジョー・デイ事務局長と交わした約束 ― 「優勝賞金は全額寄付する」 ― を守ります。賞金25,000ドルのうち2万ドルをジュニアゴルフへ、5千ドルを癌研究へ寄付し、さらにプレーオフ出場ボーナス等からキャディに2,000ドルを渡しました。当時、プロがキャディに渡した金額として最高額だったと伝えられます。母を癌で亡くしていたプレーヤーにとって、それは必然の選択でした (PGA TOUR)。
プレーヤーが活躍した時代、南アフリカは人種隔離政策 アパルトヘイト を敷いていました。その国を代表するスター選手であったプレーヤーは、しばしば自国の政策の「顔」と見なされ、コース上で激しい政治的逆風に晒されます。
最も象徴的だったのが 1969年の全米プロ選手権 (オハイオ州NCR CC) です。反アパルトヘイトの抗議者たちがギャラリーに紛れ込み、プレーをたびたび妨害しました。プレーヤー自身が後年こう振り返っています ― 「背中に電話帳を2度投げつけられ、目に何度も氷を投げ込まれ、10番グリーンで大事なパットを打とうとした瞬間に突進してきて、ボールが私の脚の間にあるのにバックスイングで叫ばれた」。同組だったジャック・ニクラスも「ゲイリーがデイトンで受けた妨害は最悪だった」と証言しています。プレーヤーはこの大会をレイ・フロイドに 1打差の2位 で逃しており、「あの抗議がなければ間違いなく勝っていた」と語っています (Golf.com)。
注目すべきは、プレーヤーがこの妨害を恨まなかったと語っている点です。「私は苦々しくは思わなかった。我々の国は最も酷い制度をやっていたし、アメリカもそうだった」。そして彼は、ゴルフを通じて自国の状況に働きかけようとします。1969年には南アフリカのフォルスター首相に直接掛け合い、マスターズ初の黒人出場者 リー・エルダー を南アフリカの大会へ招くことに成功しました (Wikipediaの脚注元: golf.com)。
後年、ネルソン・マンデラはプレーヤーを評価する言葉を残しており、プレーヤー自身も自らの英雄としてマンデラ、ガンジー、チャーチル、マザー・テレサの名を挙げています (PGA TOUR Champions)。アパルトヘイトという巨大な政治の渦に否応なく巻き込まれながら、彼はコースの上で結果を出し続けることで自らの立場を切り拓いていきました。
| 項目 | 数字 | メモ |
|---|---|---|
| 全世界通算優勝 | 165勝 | 六大陸すべてで勝利を挙げた稀有な記録 |
| PGA TOUR通算優勝 | 24勝 | 海外を主戦場としながらの記録 |
| メジャー優勝 | 9勝 | 全英OP 3・マスターズ3・全米プロ2・全米OP 1。歴代4位タイの総数 |
| キャリア・グランドスラム | 達成 (1965) | 米国人以外で史上初・歴代3人目。達成は当時29歳で最年少 |
| Champions Tour通算優勝 | 19勝 | 50歳以降のシニアでも勝ち続けた |
| シニアメジャー | 9勝 | レギュラー・シニア両方でグランドスラムを達成した唯一の選手 |
| コース設計 | 400件超 | Gary Player Designとして世界各地で展開 |
| 世界ゴルフ殿堂入り | 1974年 |
プレーヤーは 全英オープン・マスターズ・全米プロ・全米オープン の4大メジャーすべてを制した「キャリア・グランドスラマー」です。1965年にこれを達成した時点で、ジーン・サラゼン、ベン・ホーガンに次ぐ史上3人目、そして 米国人以外として初めて の達成者でした。現在まででこの偉業に到達したのはサラゼン、ホーガン、プレーヤー、ジャック・ニクラス、タイガー・ウッズの5人だけです。さらにプレーヤーは、レギュラーツアーとシニアツアーの両方でキャリア・グランドスラムを成した唯一の選手でもあります (PGA TOUR Champions / PGA TOUR)。
ゲイリー・プレーヤーを語るうえで欠かせないのが、常に 黒で統一したウェア です。この姿から付いたあだ名が 「ブラック・ナイト (Black Knight=黒い騎士)」。1965年全米オープンでも、彼はその週ずっと同じ黒いシャツでプレーし、暑さを味方につけました。黒は彼のブランドそのものとなり、後に長男マークが率いる「ブラック・ナイト・インターナショナル」へと受け継がれています (PGA TOUR Champions)。
もう一つの代名詞が 「ミスター・フィットネス (Mr. Fitness)」。17歳の時、出征する兄から「生涯ずっと運動を続けろ」と誓わされ、彼はその約束を生涯破りませんでした。1965年の全米オープンでは「これまでで最も強かった」と語るほど16ポンド (約7kg) の筋肉を蓄え、当時としては珍しい本格的なウェイトトレーニングを取り入れていました。フィットネスがアスリートの常識になるはるか前から、彼は身体作りこそが長く勝ち続ける鍵だと体現していたのです。
身長170cm・体重68kgと小柄ながら、徹底した鍛錬と精神力 ― 過去の優勝者掲示板に自分の名を思い描く「自己暗示」、バッグに忍ばせた蜂蜜、試合前の祈り ― で世界の頂点に立ち続けました。プレーヤーは自らを「史上最も多くの距離を旅したアスリート」と称し、その移動距離は2,800万キロを超えるとされます。ゴルフの「国際大使」として、彼は世界中にこのスポーツを広める使命を生涯背負いました (PGA TOUR Champions)。
選手としての偉業に加え、プレーヤーは引退後も多彩な活動でゴルフ界に貢献し続けました。
コース設計家 としてのGary Player Designは、世界各地で 400件を超える プロジェクトを手がけています。代表作には、2003年プレジデンツカップの舞台となった南アフリカのThe Links at Fancourtなどがあります。「選手」「設計家」の両面でゴルフの地形そのものを形作った人物は、決して多くありません (PGA TOUR Champions)。
慈善活動 も彼のレガシーの柱です。長男マークが設立したThe Player Foundationは、恵まれない子どもたちの教育支援を目的に、南アフリカ・ヨハネスブルグに500人超を収容するBlair Atholl Schoolsを建設するなど、世界で6,400万ドル以上を集めてきました。1965年全米オープンの優勝賞金を全額寄付したあの行動は、その後の生涯を貫く姿勢の出発点でした (PGA TOUR Champions)。
近年は、ジャック・ニクラス、故アーノルド・パーマーと並ぶ「ビッグ・スリー」の一人として、マスターズの 名誉スターター を務め、毎年の開幕に華を添えています。無一文で故郷を出た南アフリカの少年が、世界165勝のレジェンドとなり、設計家・慈善家・伝道師として走り続けた ― その生涯は、ゴルフがいかに国境を越えて人をつなぐスポーツであるかを体現しています (World Golf Hall of Fame)。
全英オープン・マスターズ・全米プロ・全米オープンの4大メジャーをすべて制覇することを指します。プレーヤーは1965年の全米オープン制覇でこれを達成し、ジーン・サラゼン、ベン・ホーガンに次ぐ史上3人目、そして米国人以外としては史上初の達成者となりました。当時29歳で、それまでの最年少記録でもありました。
通算9勝です。内訳は全英オープン3勝 (1959・1968・1974)、マスターズ3勝 (1961・1974・1978)、全米プロ2勝 (1962・1972)、全米オープン1勝 (1965)。メジャー総数9はゴルフ史で歴代4位タイです。
コースで常に黒のウェアを身につけてプレーしたことに由来する愛称で「黒い騎士」を意味します。1965年全米オープンでもその週はずっと同じ黒シャツで通しました。黒は彼のブランドとなり、長男が率いる事業「ブラック・ナイト・インターナショナル」にも受け継がれています。
はい。50歳以降にシニアツアーへ参戦し、通算19勝を挙げました。さらにシニアのメジャーも複数制覇し、レギュラーツアーとシニアツアーの両方でキャリア・グランドスラムを達成した唯一の選手となっています。引退後は世界で400件超のコース設計も手がけました。
プレーヤーは現在は競技から退いており、最新成績を自動で更新する選手ページは設けていません。本記事が事実上のプロフィール・物語ページです。現役選手の最新成績・クラブセッティングは 各選手のページをご覧ください。
最終更新: 2026-06-04