1980 年 6 月、ニュージャージーのバルタスロール。青木功は 4 日間すべてジャック・ニクラスと同じ組で回り、最終日を首位タイで迎えました。世界最強のニクラスと正面からぶつかり、2 打差の 2 位。負けはしましたが、この死闘で **「日本にもこんな選手がいる」** と世界に知らしめたのです。我孫子ゴルフ倶楽部のキャディだった少年が、東京タワーになぞらえて「Tower」と呼ばれ、独特のパッティングと不屈の勝負勘で世界を渡り歩く ― 海を渡った日本ゴルフの開拓者・青木功の物語を、年表と名場面で振り返ります。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1942 | 8 月 31 日、千葉県我孫子市の農家に生まれる |
| 1957 頃 | 15 歳で我孫子ゴルフ倶楽部のキャディとなり、ゴルフに出会う |
| 1964 | プロ転向 |
| 1971 | 関東プロで国内ツアー初優勝 |
| 1973 | 中日クラウンズ・日本プロなど一年で 5 勝、トップ選手へ |
| 1978 | 世界マッチプレー選手権 (英国・ウェントワース) 優勝 ― S・オーエンを 3&2 で下す |
| 1980 | 全米オープン 2 位 ― ニクラスと 4 日間同組、2 打差の死闘 |
| 1983 | ハワイアンオープン優勝 ― 日本人・アジア人初の PGA TOUR 制覇。同年ヨーロピアンオープンも制覇 |
| 1983 | 日本オープン優勝 (悲願の国内ナショナルタイトル) |
| 1989 | コカ・コーラクラシック (豪州) 優勝 |
| 1990 | 三菱ギャラン優勝。国内ツアー通算勝を積み上げる |
| 1992 | 米シニアツアー (現 PGA TOUR Champions) 初優勝 ― バンクワン・シニア PGA クラシック |
| 1997 | エメラルドコースト・クラシックで「60」(10 アンダー) をマークし優勝 |
| 2004 | 世界ゴルフ殿堂入り ― 日本人男子初 |
| 2008 | 紫綬褒章。同年、鬼ノ城シニアオープンで最後の優勝 (66 歳) |
| 2015 | 旭日小綬章を受章 |
我孫子のキャディ少年がテレビでアーノルド・パーマーのプレーを見て「アメリカのツアーで戦う」と夢を描き、その夢を一つずつ現実にしていった生涯でした (World Golf Hall of Fame)。
1980 年 6 月 12〜15 日、ニュージャージー州バルタスロール・ゴルフクラブ。37 歳の青木功は、当時すでに帝王と呼ばれていたジャック・ニクラスと 4 日間すべて同じ組 で回ることになりました。
青木は 68・68・68 と 3 日連続でアンダーパーをまとめ、最終日を 首位タイ で迎えます。最終日も 70 で回り、4 日間トータル 274 (6 アンダー)。これは当時の全米オープンで歴代 2 番目に低い 72 ホールスコアでした。しかしニクラスは一切ミスをせず、大会記録の 272 (8 アンダー) でフィニッシュ。青木は 2 打差の 2 位 に終わりました (World Golf Hall of Fame)。
青木は後にこう振り返っています。「72 ホール・4 日間もあれば、どんなに完璧な男でも必ずミスをする ― そう自分に言い聞かせていた。だが私は間違っていた。ジャックは最後までミスをしなかった」。そして 「自分が想像していたよりはるかに上手い選手が世界にいると気づいた。あの経験が、私の (PGA TOUR) 初優勝につながった」 とも語っています (World Golf Hall of Fame)。
優勝こそ逃しましたが、世界最強の選手と互角に渡り合った 4 日間は、日本人ゴルファーの国際的評価を一変させた 歴史的な準優勝でした。
1980 年の悔しさを糧に、青木は 1983 年 2 月、ハワイ・ワイアラエ・カントリークラブで歴史を作ります。ハワイアンオープン最終日、最終 18 番 (パー 5)。1 打差を追う場面で、青木はラフからの 3 打目、128 ヤードのピッチングウェッジをそのままカップに沈めるイーグル を決め、ジャック・レナーを 1 打差で逆転しました (The Washington Post)。
これは 日本人 ― そしてアジア人として初めての PGA TOUR 優勝 でした。日本では一夜にして国民的英雄となり、後に松山英樹ら日本人選手が世界で戦う道を切り拓いた一打として、今も語り継がれています (South China Morning Post)。
この年の青木は充実の極みにありました。9 月には英国サニングデールで ヨーロピアンオープン を制し (欧州ツアー)、10 月には悲願の 日本オープン も初制覇。1 シーズンで日米欧のタイトルを獲った、まさに世界に通用する日本人の象徴でした (青木功 公式サイト)。
| 項目 | 数字 | メモ |
|---|---|---|
| 日本ゴルフツアー優勝 | 51 勝 | 尾崎将司 (94 勝) に次ぐ歴代 2 位 |
| PGA TOUR 優勝 | 1 勝 | 1983 ハワイアンオープン (日本人初) |
| PGA TOUR Champions (米シニア) 優勝 | 9 勝 | 1992〜2002 |
| 欧州ツアー優勝 | 1 勝 | 1983 ヨーロピアンオープン |
| 世界マッチプレー選手権 | 1 回 (1978) | 英国・ウェントワース |
| 全米オープン最高成績 | 2 位 (1980) | ニクラスに 2 打差 |
| 世界の 6 ツアーでの通算勝利 | 71 勝 | うち母国ツアー 56 勝 |
| 日本ツアー賞金王 | 5 回 | |
| 世界ゴルフ殿堂入り | 2004 年 | 日本人男子初 |
青木の通算勝利の数え方は集計団体によって幅があり、本人公式サイトでは 世界通算 85 勝 (国内・国内シニア・海外・海外シニアの合算) としています (青木功 公式サイト)。世界ゴルフ殿堂は 「6 つの異なるツアーで計 71 勝」 と記録しています (World Golf Hall of Fame)。青木・尾崎将司・中嶋常幸の頭文字を取った 「AON 時代」 は、日本男子ゴルフ黄金期の代名詞です (日本ゴルフツアーの通算優勝回数 (Wikipedia))。
青木功を語るうえで欠かせないのが、パターのトウ (先端) を浮かせ、ヒールだけを地面に着けて構える独特のパッティングスタイル です。ボールを手で弾くようなショートストロークは「ジャブ」と呼ばれ、世界中のゴルファーを驚かせました。
このスタイルが生まれたのは偶然でした。本人いわく 「ファースト・フライト社の『サイレント・ポーン』というパターを使っていたが、36 インチもあって自分には長すぎた。だから体から遠くに離して構えるようになった」。やがてパター自体は替えても、この構えだけは生涯のトレードマークとして残りました (World Golf Hall of Fame)。
そのタッチへの賞賛は枚挙にいとまがありません。同じ殿堂入りメンバーのチチ・ロドリゲスは 「あんなパッティングストロークは生まれて見たことがない。彼はジャブの王様だ」 と評し、ニクラスも 「なんというタッチ、なんというパッティングだ」 と舌を巻きました (World Golf Hall of Fame)。
もう一つの有名な習慣が、「5」の番号が入ったボールしか使わない こと。日本語で「5」は「ゴ」と読み、これは「自分が出したくない最悪のスコア (1 ホール 5 打)」を常に意識するための験担ぎだといいます (World Golf Hall of Fame)。
千葉県我孫子市の農家に生まれた青木は、15 歳で我孫子ゴルフ倶楽部のキャディとなり、そこでゴルフと出会いました。テレビで憧れのアーノルド・パーマーのプレーを見て 「アメリカに渡って、ツアーで戦う」 と心に誓ったといいます。学校を出るとすぐにプロ転向。「世界を見たい」という思いが、生涯の原動力でした (World Golf Hall of Fame)。
身長 180cm の長身から 「Tower (東京タワー)」 と呼ばれた青木は、日の丸を掲げて世界中を飛び回る「日本ゴルフの大使」でもありました。2004 年の世界ゴルフ殿堂入り式典で青木を紹介したグレッグ・ノーマンは、こう讃えています。「彼は日本ゴルフのアーノルド・パーマーだ。文化も言葉も違う母国の海を渡って戦うのは、決して簡単なことではない」 (World Golf Hall of Fame)。
青木の挑戦は、後進にとって道標そのものでした。メジャー 3 勝のラリー・ネルソンは 「彼は現代の日本人選手すべてに影響を与えた。彼が国外で勝ち始めてから、日本の選手はどんどん強くなった」 と語ります。松山英樹をはじめとする今の日本人選手が世界で戦えるのは、青木が最初に海を渡って結果を出したからにほかなりません (World Golf Hall of Fame)。
その功績は国家からも認められ、2008 年に紫綬褒章、2015 年に旭日小綬章を受章。50 歳を過ぎてからは米シニアツアーで 9 勝を挙げ、66 歳まで国内シニアで勝ち続けるなど、生涯を通じて「現役」であり続けた稀有なゴルファーでした (青木功 公式サイト)。
1980 年バルタスロールでの全米オープンで、当時世界最強のジャック・ニクラスと 4 日間すべて同じ組で回り、2 打差の 2 位に食い込みました。優勝こそ逃しましたが、世界の頂点と互角に渡り合ったこの死闘が、日本人ゴルファーの国際的評価を一変させた歴史的な準優勝として語り継がれています。
レギュラーの PGA TOUR では 1983 年ハワイアンオープンの 1 勝です。これは日本人・アジア人として史上初の PGA TOUR 優勝でした。50 歳以降の PGA TOUR Champions (米シニアツアー) では別に 9 勝を挙げています。
日本ゴルフツアー (JGTO) では通算 51 勝で、94 勝の尾崎将司に次ぐ歴代 2 位です。青木・尾崎将司・中嶋常幸の 3 人は頭文字から「AON 時代」と呼ばれ、日本男子ゴルフの黄金期を築きました。
パターのトウ (先端) を浮かせ、ヒールだけを地面に着けて、ボールを弾くように打つ独特のスタイルです。長すぎるパターを体から離して構えたことが起源で、その絶妙なタッチは「ジャブの王様」と称えられました。
現在は引退しているため、試合結果やスタッツを自動更新する /golfer/ のデータページは作成していません (試合参加が無いため自動更新の対象外)。本記事が事実上の選手プロフィールページです。現役選手のデータは プロゴルファー検索 からご覧いただけます。
最終更新: 2026-06-04