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倉本昌弘 ― プロ初戦でいきなり優勝、日本ツアー30勝を駆け抜け、選手から会長へ

1981年7月、プロ転向したばかりの25歳が、デビュー戦の和歌山オープンでいきなり優勝してしまいました。その後も勝ち続け、デビューから4戦で3勝。新人ながらこの年6勝を挙げ、賞金ランキングは堂々の2位。「こんなルーキーは見たことがない」 と日本中が驚いた、それが倉本昌弘の登場でした。広島の天才少年は日本大学で日本学生選手権を4連覇し、アマチュアのままツアーを制し、プロ入り後は日本ツアー通算30勝。2003年には国内ツアー史上初の「59」を叩き出し、晩年は選手として戦いながら史上初めて現役のまま日本プロゴルフ協会の会長を務めました。プレーヤーとして、そして運営者として日本ゴルフを支え続けた倉本昌弘の物語を、年表と名場面で振り返ります。

倉本昌弘 ― 日本男子の全英オープン歴代最高4位タイの舞台、ロイヤル・トルーン
倉本昌弘が当時の日本男子最高位となる全英オープン4位タイを記録したロイヤル・トルーン・ゴルフクラブ(1982年全英オープン)。スコットランドの名門リンクス dave souza / Wikimedia Commons (CC BY-SA 4.0)

キャリア年表

出来事
1955 9月9日、広島県広島市に生まれる
1975 日本アマチュア選手権 優勝 (1977・1980にも制し計3勝)
〜1978 日本大学在学中、日本学生選手権を4連覇 ― 学生ゴルフ界で空前絶後の記録
1976 アイゼンハワートロフィー (世界アマ団体戦) に日本代表として出場
1980 中四国オープンをアマチュアのまま優勝 ― プロを抑えてのタイトル
1981 プロ転向。デビュー戦・和歌山オープンで即優勝。この年6勝、新人で賞金ランク2位
1982 全英オープン4位タイ ― 今なお日本男子の同大会最高順位。同年 日本プロ選手権を初出場で優勝
1985 ブリヂストンオープンで青木功を1打差で下す。ダンヒルカップ日本代表
1987 マルマンオープンを通算24アンダーで圧勝
1988 1年で5勝。中四国オープンを13打差の大差で制す
1992 プロ入り後25勝に到達し 永久シード獲得。日本プロ選手権で中嶋常幸とのプレーオフを制し2勝目
1993 米PGA TOURのクオリファイングを突破し、フル参戦資格を得て渡米
2003 アコムインターナショナル初日に「59」 ― 国内ツアー史上初。同大会で 通算30勝目 (48歳)
2005〜 50歳でシニア参戦。国内シニアで通算8勝、欧州シニアツアーでも優勝 (海外含め9勝)
2010 / 2014 日本シニアオープン優勝。シニア賞金王にも2度輝く
2014 日本プロゴルフ協会 (PGA) 会長に就任 ― 現役選手として史上初
2022 4期8年務めたPGA会長を退任
2023 日本ゴルフ殿堂入り

広島の天才少年が、選手としても運営者としても日本ゴルフの中心に居続けた半生でした (日本ゴルフ殿堂)。

名場面: 1981年 ― 衝撃のプロデビュー、初戦から勝ち続けた新人

倉本昌弘のプロ生活は、信じがたい形で幕を開けました。1981年にプロ転向した倉本は、その デビュー戦・和歌山オープンでいきなり優勝 してしまいます。これだけでも大事件ですが、勢いは止まりませんでした。デビューから4戦で3勝 (うち2位1回) という、新人離れした成績を残したのです (日本ゴルフ殿堂)。

もっとも、倉本は決して「無名の新人」ではありませんでした。日本大学時代には 日本学生選手権を4連覇、日本アマチュア選手権を3度制し、プロ転向前年の1980年にはアマチュアの身分でプロの大会・中四国オープンを優勝していました。すでに「学生最強」「アマ最強」として知られた逸材が、満を持してプロの舞台に立ったのです (日本ゴルフ殿堂)。

プロ1年目の1981年シーズン、倉本は 計6勝 を挙げ、賞金ランキングは 2位。新人がシーズン中に6勝を積み上げるのは、日本ツアー史でも例を見ない離れ業でした。青木功・尾崎将司・中嶋常幸という「AON」が君臨していた時代に、若き倉本が割って入った瞬間でもありました (Wikipedia: Masahiro Kuramoto)。

名場面: 1982年全英オープン4位 ― 今も破られぬ日本男子の最高順位

プロ2年目の1982年、倉本は世界の舞台でも存在感を示します。7月、スコットランドで開催された 全英オープン (The Open Championship) で4位タイ。これは日本人男子による全英オープンの最高順位であり、40年以上が経った今もなお破られていません (Wikipedia: Masahiro Kuramoto)。

海外メジャーで日本人がトップ5に入るのは当時としては極めて稀で、倉本のこのフィニッシュは「日本人もメジャーで戦える」ことを世界に示した一歩でした。後年、松山英樹がマスターズを制するまで、海外メジャーにおける日本男子の代表的な好成績として語り継がれてきた記録です (日本ゴルフ殿堂)。

そして同じ1982年、倉本は国内でも歴史を作ります。日本プロ選手権に初出場し、いきなり優勝 ― 14アンダーで4打差をつける完勝でした。海外メジャーでの好成績と国内メジャー級タイトルの初制覇を同じ年に成し遂げた1982年は、倉本が日本のトップ選手の地位を確固たるものにしたシーズンでした (日本ゴルフ殿堂)。

名場面: 2003年アコムの「59」 ― 48歳が刻んだ国内ツアー史上初の数字

倉本の名前を不滅にしたのが、2003年9月のアコムインターナショナルです。当時 48歳 になっていた倉本は、大会初日に 「59」(13アンダー) をマーク。これは 日本の国内ツアー競技で史上初の50台 であり、当時の世界記録に並ぶ歴史的なスコアでした (日本ゴルフ殿堂)。

ゴルフにおいて「59」は、選手生命をかけても一度出せるかどうかという伝説的な数字です。それを、20代の若手ではなく、すでにベテランの域に達した48歳が叩き出したことに、ゴルフ界は震撼しました。

そしてこの「59」は単なる記録に終わりませんでした。倉本はこの勢いのまま アコムインターナショナルで優勝し、これが日本ツアー通算30勝目 となったのです。デビュー戦勝利から22年、節目の30勝目を自らの伝説的ラウンドで飾るという、物語のような幕切れでした (Wikipedia: Masahiro Kuramoto)。

数字で見る功績

項目 数字 メモ
日本ゴルフツアー優勝 30勝 歴代6位
プロ1年目の勝利数 6勝 1981年・新人で賞金ランク2位
全英オープン最高成績 4位タイ (1982) 日本男子の同大会歴代最高順位
永久シード 1992年に獲得 プロ入り後25勝で資格達成
国内ツアー初の「59」 2003年 アコム初日・48歳でマーク
日本アマチュア選手権 3勝 (1975・77・80) アマ時代から国内最強格
日本学生選手権 4連覇 日本大学在学中の空前絶後の記録
シニアツアー優勝 9勝 (海外1勝含む) 日本シニアオープン2勝・シニア賞金王2回
PGA会長在任 4期8年 (2014〜2022) 現役選手として史上初の就任

倉本のキャリアは「アマ最強 → プロで即トップ → ベテランで伝説のスコア → 運営者へ」と一貫して頂点を歩み続けた点に特徴があります。全英オープン4位 (1982) は日本男子の同大会最高順位として今も残り、2003年の「59」とともに、彼の名を日本ゴルフ史に刻んでいます (日本ゴルフ殿堂)。

人物像 ― 選手から運営者へ、「ツアーを作る側」に回った天才

倉本昌弘を語るうえで欠かせないのが、選手としての実績にとどまらず 「日本のプロゴルフという仕組みそのもの」を作り、支えた人物 だという点です。倉本は選手として活躍する一方で、日本ゴルフツアー機構 (JGTO) の設立 に深く関わりました。プレーヤーの立場から、ツアーを運営する組織づくりに踏み込んだのです (日本ゴルフ殿堂)。

その姿勢が結実したのが、2014年の 日本プロゴルフ協会 (PGA) 会長就任 でした。これは 現役のトーナメントプレーヤーが会長に就く史上初 の出来事であり、「プレーする側」と「運営する側」を同時に体現する、極めて異例の人事でした。倉本は4期8年にわたり会長を務め、2022年に後進へとバトンを渡しています (PGA会長退任を報じるGDO)。

会長として倉本が特に力を注いだのが、ジュニア育成とシニアツアーの活性化 でした。自身が学生時代から頂点を極めた経験を持つだけに、次世代の選手をいかに育てるか ― その視点を運営に持ち込みました。現在も「倉本昌弘インビテーショナル」と名の付いたシニアチャリティートーナメントが開催されるなど、その名は日本ゴルフ界に深く根を張っています (日本プロゴルフ協会)。

50歳を過ぎてもシニアツアーで9勝を挙げ、賞金王にも輝いた現役感覚と、組織を背負う運営者の視点。その両方を持ち合わせた稀有なゴルファーとして、2023年に 日本ゴルフ殿堂入り を果たしました。プレーでも運営でも日本ゴルフの最前線に立ち続けた人生が、改めて評価された瞬間でした (日本ゴルフ殿堂)。

使用クラブ・関連アイテム

ドライバー
本人監修系 ドライバー (ツアーモデル)
デビュー戦から30勝を支えた精密なショットメーカー。飛距離より正確性を信条としたスイング哲学が、晩年48歳の「59」にも生きた。
書籍
倉本昌弘『ゴルフの真の基本』(レッスン)
「日本ツアー30勝」の理論派が説くスイングの本質。セットアップとスイング軸の考え方は今も多くのアマチュアの教科書。
パター
ブレード型 パター
国内ツアー初の「59」を刻んだ繊細なタッチ。長年シンプルなブレード型を愛し、感覚を最優先したパッティングが持ち味。
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よくある質問

倉本昌弘のプロデビューはどれくらい衝撃的だった?

1981年のプロ転向後、デビュー戦の和歌山オープンでいきなり優勝。デビューから4戦で3勝を挙げ、プロ1年目だけで計6勝、賞金ランキング2位という日本ツアー史上類を見ない好スタートを切りました。日本大学で日本学生選手権4連覇、日本アマ3勝という「アマ最強」がそのままプロでも頂点に立った形です。

全英オープン4位はなぜ語り継がれるの?

1982年全英オープンでの4位タイは、日本人男子による同大会の歴代最高順位で、40年以上経った今も破られていません。当時、海外メジャーで日本人がトップ5に入ること自体が極めて稀で、「日本人もメジャーで戦える」と世界に示した記録として評価されています。

2003年の「59」とはどんな記録?

2003年アコムインターナショナル初日に倉本がマークした13アンダー・59のことです。日本の国内ツアー競技で史上初の50台で、当時の世界記録にも並ぶ伝説的スコアでした。しかも当時48歳。倉本はこの大会で優勝し、通算30勝目を飾りました。

現役選手のままPGA会長になったって本当?

本当です。倉本は2014年、現役のトーナメントプレーヤーとして史上初めて日本プロゴルフ協会 (PGA) の会長に就任しました。シニアツアーで戦いながら組織を率いるという異例の立場で、4期8年務めた後、2022年に退任しています。日本ゴルフツアー機構 (JGTO) の設立にも関わるなど、運営者としての貢献も大きい人物です。

この選手の最新データはどこで見られる?

倉本はレギュラーツアーを引退しているため、最新成績を自動で更新する選手ページは設けていません。本記事が事実上の選手プロフィールページです。現役選手のデータは プロゴルファー検索 からご覧いただけます。

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出典・公式リンク

最終更新: 2026-06-04